お城南通りの歴史

小田原のお城南通り商店会の位置する場所は、北条時代に小田原城を中心として市街地が形成されたときに、商業地として整理されました。

 お菓子のういろうや歌舞伎の二代目市川團十郎の外郎売りの口上で有名な外郎家(ういろうけ)は北条氏が京より呼び寄せたといわれています。

松山清ヘアサロンのご先祖は江戸時代の板橋から山王までの髪結い床の元締めだったとか、明治時代から続いているお店も何軒かあります。

 北条氏が小田原に上水道として、箱根からの水を利した、日本で初の上水道といわれる小田原用水(早川用水)も商店街の中を流れています。残念ながらほとんどの部分が暗渠になってしまって見えませんが、一部では流れを見ることが出来ます。昔はホタルも見られたそうです
 北条氏が滅んだあと、小田原に攻め入った大名が小田原の
上水システムを見て、自国へ持ち帰り、同様の上水道を普及させた。江戸城にも取り入れられた。

 明治に入り、廃藩置県で小田原藩が廃止され、体制が変わり勢いを持った人々が 、別邸や隠居所として居住しました。

明治21年に人者鉄道の小田原駅が早川口(歩道橋のたもと)出来、熱海まで26K余を4時間40分かけて人間が線路の上を押していきました。
熱海線ができるまでは早川口が伊豆の入り口でした。

 小田原にはお城の跡に大正天皇の御用邸が出来、閑院宮様が居住され、皇室につながる人も居住されました。
伊藤博文、山縣有朋、野村靖などの政治家、官僚も長州藩出身者を含め多数居住されました。小田中(現小田原高校)の初代校長は吉田松陰の妹千代の子供(松陰の甥)です。2代目の阿部宗孝校長も長州藩での松陰の弟子でした。
 財界人も三井物産の創始者で三井の大番頭と言われた益田孝が板橋に掃雲台を建築し、小田原で実験農場のような事業を繰り広げました。石垣山農場でみかん、蚕、各種果物の栽培、羊の牧場、中島で乳牛(牛乳工場・益田牛乳)、仙石原で牧場や山林の経営、宮城野で鱒の養殖、新谷のほうで鯉の養殖、宇佐美の農場、大井川上流で山林経営、小田原周辺で多数の事業を起こし、地元民の仕事も作りました。
 また、関連企業の人脈も多く、多数の人たちが小田原に別邸を作りました。

小田原三茶人と呼ばれる益田孝(鈍翁)、松永安左衛門(耳庵)、野崎廣太(幻庵)らを中心に近代日本のお茶文化が花開きました。
これらの情報は十字町ヒストリアに展示しています

 

 

 

 

 

上へ